砂の女 感想2-鼠

「砂の女」安部公房

感想2-鼠


“Tel est pris qui croyait prendre”

(他人を罠に陥れようと考えていた者が逆に自分で仕掛けた罠に引っかかる。)

自然と人間(女)を操ろうとする男が惨めな状態に落ちてしまう。

  「砂の女」という小説に登場する男はエディプスコンプレックスにとりつかえている。彼の欲望が満たされていないので「決して逃げ出す気づかいのない虫の死骸に、しきりとピンをつきさしたがある。」獰猛な性質で自然を支配しようとする気がする。残酷な上で論理的に物事を考える。頑固で意固地である。とりなおさず他人を操ろうとするわけ。「作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。」

 

  然しそんな強がっている彼に自然が襲いかかってくる。「絶えもなく、海から風が吹きつづけ、はるか眼の下の砂丘のふもとを、ちぎれた白い波が嚙んでいる。」この文が迫ってくる知らない危機を予測していると感じられる。

  この話の転換が私の興味を引いた。男は段々周りの自然環境に圧迫されつつ最終的に砂の穴にたどり着いて、抜けられなくなる。

そして彼の論理が崩れてしまう。脱出しようといくら計算しても全てが虚しい。虫を殺していた彼が自分も虫のように捕まえられてしまう。砂に勝てない。砂が恐ろしい。「自分の中にあった砂のイメージが無知によって冒瀆されたような気がしたのだ。」砂の粒子がとても小さい存在でありながら強烈な破壊力を持っている。そして昆虫採集が惨めになる。「怒りと、屈辱が、一本の鉄心になって、男を内側から硬直させた。爪を、粘つく手のひらに食い込ませながら、なおも叫びつづけた。」誇り高い人間だった男は精神的に肉体的にも壊れてしまう。

 

  この人物と比較したら女性の方が丈夫という印象を受けた。素直で働き者だ。現実を認めながら逃げようとしない。立ち向かう。せっせと砂掻きをしている姿を観察すれば勇気を与えられる。彼女が象徴しているのは生き残るための日常の苦労ではまいか。「日常とは、そんなものなのだ……だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」男は逆にその日常を受け入れない。やっきになり、悩んでしまい、それから低いところに落ちてしまう。そのせいで結局彼は女を侮辱しながら同時に焼きもちを抱く。

 

  このパラドックスが面白い。無防備である女性の方が男性を支配している。この小説には「矛盾」、「逆説」、「ジレンマ」が多くて読者の視野を大きく広げる。”Tel est pris qui croyait prendre.”「他人を罠に陥れようと考えていた者が、逆に自分でしかけた罠に引っかる。」(ラ.フォンテーヌの「寓話」第8巻第9話「鼠と牡蠣」(1678)世間知らずの鼠が、日向ぼっこうをして口を開けている牡蠣を見つけて、うまそうだと思って捕まえようとしたところ、口を閉じた牡蠣に挟まれてしまった、という話だ。弱い者を軽蔑している主人公が(同僚、虫、女)逆に自分も檻の中にいる獣のようにいじめられる立場になる。